1万分の1マーケティング・昭和から令和につなぐローカル中小企業のものがたり

このものがたりは、ジャイロ総合コンサルティング会長大木ヒロシによる新著「1万分の1マーケティング」に掲載される冒頭部分となります。

本著は、ローカル中小企業の経営活性化、経営の再構築を実現させるためのDX戦略について書かれており「現状売上+1千万円」につなげるための方策を記した書籍となります。

書籍発売に先立ち、冒頭部分を公開させていただきます。

9月中旬発刊となりますので、どうぞお楽しみに。

【昭和から令和につなぐローカル中小企業のものがたり】

手術後2週間が過ぎ、経過は悪くないと医師から知らされた。

昭夫は「そうか、助かったか」と小さく伸びをしてみた。

しかし、一方では自らが経営している店のことが気にかかる。妻と長女とパート5人で切り盛りしていた店が、今は妻が一人で対応している。それで充分なほどにお客が減っているのだ。

妻の和子には何度か「やめるか?」と問いかけたが、そのつど「お父さん、私が頑張れるうちは頑張るよ。あんたが良くなって戻ったら二人だけでやればいいよ」とだけ答える。

しかし、店を改築・拡張した際の借り入れの返済は大きく残っている。銀行との話し合いの末、返済は一時猶予となり、現在は金利のみの支払いとなっている。それでも、厳しいのが現状だ。

今となっては、昭夫が店を構える商店街も、地方の多くの商店街の例にもれず閉店する店が相次ぎ、シャッター通り商店街と揶揄される始末だ。開いている店は開店休業状態で、聞けば「やめられるだけましだよ、借金が残っていて、やめるにやめられない」とまで言う人もいる。

なぜ、こんなことになってしまったのか。

昭夫の店は40店舗ほどが並ぶ商店街の一角にある。昭和23年の戦後間もない時期、昭夫の父母によって地元の新・名物の「鶏モツ煮」を看板商品とする惣菜店「菅野屋」として始まった。当時としては珍しい甘辛の味が評判で、時には行列ができることもある繁盛店だった。

その頃は「長男は家業を継ぐ」が当たり前の風潮だった。昭夫も父に言われるままに地元の商業高校に進み、卒業後は修業ということで都内のスーパーに惣菜担当を条件に就職した。23歳の時に地元に戻り、有限会社となっていた菅野屋に入社した。

父母とパート3名の小規模ながら、相変わらずの忙しさだ。その頃はすでに高度成長期は終わりを告げたというものの、地域経済は「団塊世代ジュニア」による第二次ベビーブームもあり、依然として上昇カーブを描いていた。以前ほどではないが、商店街にも活気はある。

そんな中、社長だった父が体調を崩したことと高齢を理由に退くことになり、後は昭夫に任された。自分の会社と思えば意欲は高まる。とはいえ地方商店街の鶏モツ煮が中心の小規模な惣菜店ではこれ以上を期待することは難しく、実際に売り上げは伸び悩んでいた。

そんなある日、商店街組合からの誘いで商店経営セミナーに参加した。講師の話は「安くすれば売れる、売れれば仕入力が上がる、そうなれば他店より安く売っても利益は出る」要するにバイイングパワーによる業績拡大戦略であった。

時折、お客から「惣菜以外の食品も置いてほしい」との要望を聞くことも増えた。東京のスーパーでの経験から言えば、これからは消費者にとっての利便性を考えるのも重要なことだとわかっている。そこで、昭夫は「三度の食事のお手伝い」をテーマに惣菜を軸に一般食品を安く販売することで売上拡大を目指した。

現状の店舗面積は15坪にも満たないが、敷地は80坪程度ある。50坪程度の売場面積は充分に可能だ。事業計画を立て、地元の信用金庫に融資の話しを持ちかけると、融資可能の返事が来て約3千万円の融資を得て拡張・改築に入った。

食品の仕入れは地元の食品問屋と県の中央市場を活用した。惣菜店「菅野屋」は「食品スーパーカンノ」と名を変え、オープン初日は「モヤシ1袋9円」「タマゴ1パック39円」の超目玉価格で、店内は入り切れず、商店街の端まで長蛇の列となる。その後も、超目玉チラシ作戦は続き、日がたつにつれ創業以来の名物の「鶏モツ煮」は影が薄くなっていった。

続く

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